自分で決めるということ
自分で納得して決めたことであれば、失敗しても自分の責任という覚悟がおのずとできているので、失敗しても策を練って再挑戦するかスパッと切って次の課題にかかるか、いずれにせよそれほど悔しくはない、というか悔しがってはいられない。
対して、他人の無責任な(この場合、単に連帯責任をかぶる義務がないという意味で別に悪口ではない)アドバイスに納得のないまま流されて失敗すると、内容に思い入れがあればあるほど悔しい。あまつさえアドバイスを寄こした当人にまで罵倒された日には、その日は仕事にならんぐらい悔しい。それで次工程に渡すのが遅れて、結局当事者含めみんなにマイナスになってしまうのだ。
そういう意味で、他人の話をまじめに聞きすぎる人は要注意である。そして相手が格上、たとえば子に対する親とか、部下に対する上司とか、政治家に対する世論とか(?)であっても、自分で納得する余裕を持ちながら話を聞きたいものである。極論すれば、指示や命令ならいざ知らず、責任を伴うとみなせないアドバイスに従わない確乎な納得があるのなら、従わない方が本人にとってはよい場合がある。なんかキャッチセールスに対する心構えみたいになってきたけど(笑)。
それで失敗して(結果的にアドバイスは正しくて)損をしても、それは純粋に自分の能力や見識が足りなかった、または納得に至る確認の手間を怠ったペナルティであり、それで評価を下げられたとしたら、それが現時点の自分の実力なのだ。
他方、無責任なアドバイスを聞かずにうまくいって、アドバイスを聞かなかったことで嫌われた場合とか、明らかに強制力をもって命令したにもかかわらず、失敗した時に責任もってフォローしてくれない場合は、ただその助言者の器がちっさいだけのこと。
しかし、無責任なアドバイスに流されて、本来の実力を発揮できず失敗し損をした場合は、怒りの矛先の向けようがない。そして一体何のせいで損するに至ったかというと、まさに「流されたこと」と考えるほかない。
人を見たらキャッチセールスと思え…はさすがに不幸すぎるが、身近な人間ぐらいは信頼に足る人物であってほしい、というより信頼することでお互いがプラスになれるような人間が、身近にあってほしいものである。ここで言う信頼とは精神的なものに限らず、人によっては物質的な利害関係であってもかまわない、とあえて記す(長続きするかどうかは別の話)。
もっとも、言うこと聞くまでずっと拘束して、それで相手が失敗しても知らんぷりっていう、まんまキャッチセールスな手合いも稀にいるけど(汗)。